いろいろな色

悩み多きアラフィフのいろいろ

「他人と比べても苦しいだけだよ」

と、言われて、

「そうだね。うん!わかった!」

と、わかるならば、こんなに苦しまないよ。

むしろ、あぁ、やっぱり自分は下手くそなんだなって。そういうあなたとも比べてしまう。

 

もうね、それは性格なので、しょうがないのです。

でも、最近すこしわかってきた。比べると危険だということ。

君子危うきに近寄らず。だということ。

 

海外で独立して活躍して有名になって、そういう人たちが悩みを語るとき、どうせ自分は違うし!とか、はいはいそんなレベルの高い悩み、自分にはありませんから!とか。

いろいろな情報が入ってくるから、無防備にスコーンとやられちゃうのですが、そのときに、いや違うんだ。自分はそれを求めてるんじゃないんだ、と思えるようにしている。

それは大抵は負け惜しみに聞こえてしまうんだけども、そうじゃなくて、違うの。彼らと自分の色が違うの。

 

そういうとき、芸術って助けてくれるかなって思った。

でも。違う。結局、芸術も他人と比べてる。

ピカソは素晴らしい!と評価されても、自分にはなんのこっちゃわからない。いや、最悪なのは、たしかにいいかも、なんて思っちゃったりする自分。

それって、苦しくて、虚しい。なんで、芸術にたいして、自分を偽らなければならないのか。もっと素直に、他人関係なく、自分で想うことはできないのか。

芸術に詳しくない自分はそれができない。わからない。

 

でも、自分に限らず、世に存在するすべてのものは、なにかとの関係性をもって成り立っている、宇宙が始まってから以降は。

だから、他人と比べる、というのは、自分の存在をしるための手段として間違ってはいない。間違ってないのだけど、小さなところでとどまってるから苦しいのかな。

仏教における諸法無我だと考えれば、もっと広く捉えられるのかな。

活躍している人と自分の関係はたしかに存在していて、そこに定量的な差が見いだせたとしても、活躍している人は他の人とも関係しているし、自分も他の人とも関係している。

点と点と一つの線、ではなくて、無数の点と無数の網目の中の2つの点。

そう捉えると、他人と比較するということが、一体どの他人と比較しているの?って思って、なんだか、少し楽になれる。やっぱ、何千年も考え抜かれた宗教ってすごいね。

 

ま、でも、そんな無数の点の中の1つの点だとわかったとして、それはスナップショットにすぎなくて、この先の自分の人生を考えると、無数の点が蠢き出すわけで、それだけでは、自分にとってはなんの指針にもならない。ただ、そういうものですよって、言われてるだけで。