いろいろな色

悩み多きアラフィフのいろいろ

自分は都会生まれでも都会育ちでもない。郊外育ち。

だから、なのか、だけど、なのか、都会を歩くことが刺激的。

昼間に、大通りから少し道を入って、雑居ビルが立ち並ぶ間をすり抜けていくと、わくわくする。どうしてなのかわからないけど。

このビルのこの狭い階段を登ったら何があるんだろう?

この横のドアを開けたら何がでてくるんだろう?

あのカーテンが閉めてある窓の中には誰がいるんだろう?

ガードレールの中を歩きながら、出っ張って邪魔な電信柱を見上げて、異常に密集した電線に、うげってなりながら、でもその向こうに広がる青空をみてホッとするような。

 

過去の思い出がぐちゃぐちゃに絡まってるせいかも。

「他人と比べても苦しいだけだよ」

と、言われて、

「そうだね。うん!わかった!」

と、わかるならば、こんなに苦しまないよ。

むしろ、あぁ、やっぱり自分は下手くそなんだなって。そういうあなたとも比べてしまう。

 

もうね、それは性格なので、しょうがないのです。

でも、最近すこしわかってきた。比べると危険だということ。

君子危うきに近寄らず。だということ。

 

海外で独立して活躍して有名になって、そういう人たちが悩みを語るとき、どうせ自分は違うし!とか、はいはいそんなレベルの高い悩み、自分にはありませんから!とか。

いろいろな情報が入ってくるから、無防備にスコーンとやられちゃうのですが、そのときに、いや違うんだ。自分はそれを求めてるんじゃないんだ、と思えるようにしている。

それは大抵は負け惜しみに聞こえてしまうんだけども、そうじゃなくて、違うの。彼らと自分の色が違うの。

 

そういうとき、芸術って助けてくれるかなって思った。

でも。違う。結局、芸術も他人と比べてる。

ピカソは素晴らしい!と評価されても、自分にはなんのこっちゃわからない。いや、最悪なのは、たしかにいいかも、なんて思っちゃったりする自分。

それって、苦しくて、虚しい。なんで、芸術にたいして、自分を偽らなければならないのか。もっと素直に、他人関係なく、自分で想うことはできないのか。

芸術に詳しくない自分はそれができない。わからない。

 

でも、自分に限らず、世に存在するすべてのものは、なにかとの関係性をもって成り立っている、宇宙が始まってから以降は。

だから、他人と比べる、というのは、自分の存在をしるための手段として間違ってはいない。間違ってないのだけど、小さなところでとどまってるから苦しいのかな。

仏教における諸法無我だと考えれば、もっと広く捉えられるのかな。

活躍している人と自分の関係はたしかに存在していて、そこに定量的な差が見いだせたとしても、活躍している人は他の人とも関係しているし、自分も他の人とも関係している。

点と点と一つの線、ではなくて、無数の点と無数の網目の中の2つの点。

そう捉えると、他人と比較するということが、一体どの他人と比較しているの?って思って、なんだか、少し楽になれる。やっぱ、何千年も考え抜かれた宗教ってすごいね。

 

ま、でも、そんな無数の点の中の1つの点だとわかったとして、それはスナップショットにすぎなくて、この先の自分の人生を考えると、無数の点が蠢き出すわけで、それだけでは、自分にとってはなんの指針にもならない。ただ、そういうものですよって、言われてるだけで。

 

 

 

何かを選ぶのが面倒になる

「おぎゃぁと生まれた瞬間から、君の選択肢は減り続けている」といったのは誰だか覚えてないけど、そのとおりだな。そして死ぬ瞬間、あるいは、選択肢が死のみになった瞬間、死を迎える。

今のアラフィフの自分と、チーンエージャーの頃の自分では選択肢の数は星の数ほど違う。

この選択肢のどれかが最期の死まで続いてるのかと思うと、どの紐をひっぱるのか、少しどきどきする。まぁ、すべての紐が死に続いてるのが答えなのですが。

長いと思ってひっぱった紐が思いの外短かったりというサプライズはあるかな。

 

どれをひっぱるのか考えるのすら億劫になるのが、アラフィフ。

新しい電気製品を使えないのは、説明書読むのがめんどくさいから。どういう操作なんだろう?って考えるのがめんどくさいから。好奇心を刺激すると、あとがめんどくさいから。

めんどくさがってると、どうなるんだろう?

そう思って不安になってくれればいいけども、

まずいなぁ、って、ぼーっと外を眺めて、いつの間にか、早く雨やまないかなって思っている。早くやんでもやまなくても、何も違いはないのに!

 

 

耳年増

色々しりすぎると、色々ものわかりがよすぎると、逆にわからなくて、逆にものわかりが悪くなる。

こういう考えもあるし、こっちの考えもあるし、即座に脳が決断できずに、沈黙する。わからなくなってしまう。

いろいろな見方ができるというのは、いいことだと思われてるし、たしかにいいことだと思うのだけども、ちかちかしちゃって、結局なにも見えてないんじゃない?

じゃぁ、なんでいいことだと思うのか。

それって、自分をかっこつけてるだけじゃないのかなって、、でも、それはちょっと自分に厳しすぎるかな。

でも、何も知らずに、直感で決断する、その速さ、思い切りのよさ、それってすごいかっこいい。そして、そういう決断はズバっとただしく決まってる。

だから、知りすぎないように、勉強しないで、過去の経験も忘れて、ズバっと買っちゃう。えへへ。

あっというまにアラフィフ。

人生折返しで、具体的なこと、現実的なこと、いろいろ見えてきて、直視しなきゃならなくて。

いまさらながら、これまでの自分とこれからの自分の現実的で具体的な折り合いをつけたほうが、たぶん、生きやすい。

そんなことに、今頃気づいたって、自分でびっくりするけど、いやいや、いがいとこういう人多いかもしれない。

線にのった軸で考えずに、量の概念を消して、質だけで。

自分が色だと思って、その色で輝く。

そのためにどうしたらいいか。どうしたら生きやすくなれるか。

そんなことを、考えて行きたい。生きたい。